かいふう

近未来への展望や、如何に。

もう「午後」だよ。

kaihuuinternet2006-05-05

『法悦地蔵』に御参りした。半世紀前に、通園途中、踏み切りで電車に撥ねられ亡くなった少女である。
{三つ子の魂百まで}、という故事は、何に由来するのだろう。3歳児はもう意識が在り、記憶が定かである。それを母から母へ、伝承し、最初の女医が記述、その記録を次の医者が乳母にでも。とまぁ、少し脱線したが、それも[端午の節句]、ご容赦のほど。乳をふくませ、子守唄を唄ったことを知らずに終わる我が身には、解りかねる。
「縁」という、全方位、縦横無尽の、この{仏教用語}は、現在その枠からはみ出て、ごく一般に言葉にされる。{地縁}、{教縁}、{血縁}などと。
自称クリスチャンは、それを、ならば、キリスト教の言語で置き換えたならばと、「契約」が浮かぶ。主との、神様との、が答え。
「融通無碍」は、同様置き換えると、「自由自在」かな。小学校時、〔社会科自由自在〕という参考書授業に持ち込んで、担任の質問に即答し、その快感を今も引きずって来たんだから。天才クラスであれば{三つ子の魂百まで}は、生母は実感するかも。聖母は、彼を何時誰と実感したか、知らぬが。今度は、転覆してしもうた。許せ、今日は祝日、それも「こどもの日」だ。[聖句]にも、それがあるの、知ってるでしょ。
こどもは、未来であり、可能性の所有者である。
自分も、5月5日、「午後」に入った。相応しきは、「邂逅」であり、わずかな「伝言」かも知れぬ。{ブログ}なるものを、そう使おうとしてる節もある。だから、出来るだけ、記憶に忠実に、遺そうと企んで、無意識をも総動員させている。
だから、祈って来た。50年前の、その少女に。『あなたが休んでいる処の者ではない異教徒が、あなたの事、書いて載せちゃったよ』、多分、許してくれる。許す、という言葉、本当に僕は、要領よく調子よく使うな。勝手だよな。この、勝手、が最後の切り札、とおもってんだから、始末がワルい。
その少女を、{慈母観音}のように思う。『異教徒が何よ!』ってんで、{慈母}のように思慕する、そう切り換える。すると、不慮の死で、母になれなかった少女が、その分の未使用の母性を発揮して、ワル童を抱いてくれる、とおもう。しかし、所詮、『地蔵』で定まったものを、とやかくおもうことが、異教徒の証になってしまう。いや、言いたいことは、ある対象に対して祈るという行為の範囲内でのことなら、拒まないだろう、そのこと。
おそらく、その少女の存在を、意識念じていたのは、その時僕以外居なかったんだろう、この星には。