かいふう

近未来への展望や、如何に。

「なんでもベスト3」.その7/「ぼくの映画史」.その3

kaihuuinternet2006-05-13

「原爆の子」、「第五福竜丸」、共に被爆者の劇映画である。[近代映画協会]という戦後独立プロが製作した。新藤兼人が監督した。脚本にも同氏が加わった、記憶がある。彼の作品全集も予約購入したが、最終巻はどうなったことやら、発行者が物価値上がりを弁明していたが、こっちも業界落ちこぼれだから。
「原爆の子」は、広島だし、監督自身当地所縁の人だから、その怒りの原点は察しが着いた。モノクロで、白い丸い縁付帽子の乙羽信子さんが主演で、そのエクボが印象的だ。瓦礫と廃墟の被災現場、それをそのまま使っている。脚本が良ければ、説得出来る。ただし、当時駄菓子屋通いから抜けきれぬ日々からして、果たして興行的に客が集まったか疑問だが、製作者の気持ちはそこにあらず。現地の惨状、死者たちへの鎮魂と、彼らからの後押しに支えられていたのであろう。
何年経ってだろう。「第五福竜丸」という、今度もモノクロ、しかしシネマスコープの、被爆第二弾が公開された。南太平洋、ムルロワ環礁、ビキニの水爆実験場での出来事。当日前後の上空気流、風向きもあったろう。静岡焼津港所属のマグロ漁船が数日内の【死の灰】を浴びた。久保山愛吉さんが後年亡くなる、他乗組員の方々も放射能障害の後遺症に苦しまれ、長い闘病生活と保障問題を抱える事になる。宇野重吉さんの演技が残る。
後年、東京都夢の島、[第五福竜丸展示館]を訪ねた。被爆本船がある。市民からの義援金で設立されたという。水爆の破壊力は原爆より更に脅威的に上だという。その数値、憶えたくない。原爆でさえ。
いずれにせよ、新藤監督の<核>への意識は強烈なものだ。
もうひとつ、「裸かの十九歳」という作品がある。連続射殺魔が事件の劇映画である。映像で、出生地、義務教育地、それぞれ現地ロケで足跡を追って、彼が恐ろしい犯行を繰り返す、素因ならびに動機を紐解こうとする。北の番外地だとか、岩木山だとか、荒涼とか疎外感が観客を巻き込み、社会的諸問題に思索を向けざるを得ない心境を抱かせたであろう。拘置中に執筆した手記「無知の涙」から、{春闘}なるものを知ったのは、その隠せないひとりは誰あろう。お堀で囲まれた場所の居住する、のとは訳が違う。[公務」を果たしての給与と、労働者としての賃金は、違う。
だからといって、この事件が、その審理がかくも長期間に及んだのも、被害者の人数とその無残な惨状、加害者の年齢とその過酷な境遇、多くの難問を抱えたからに相違ない。罪状に変わりは無い。その加害者と自分の年齢が近かった、それで考えてしまった。犯罪者に、更に殺人者に、加えて複数への凶暴者に、共感を覚える訳が無く、だが解かねばならない全容、それを受容し切れない未熟さを、思い知った。
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門外漢で終わった者からすれば、劇映画は、『美しい虚構』と『リアリズム』、でしょう。
新藤兼人監督の作品群が、詰まるところ、もっとも影響を与えた、とおもいます。勿論、私個人のそれ、ですが。2本の被爆映画、と連続射殺魔事件の映画化。これらは、対極にどうしても世襲制、という範疇をいやが上にも、想起させました。でも片方で、いわゆる青春映画や、当時クレージーキャッツの面々の喜劇の底抜けも、観てる訳ですから。ですから、新藤監督の「裸の島」が、当時のソ連で賞を受賞とニュースに載ると、その作中のシーン、主演の乙羽信子さんが演ずる、瀬戸内海の小さな孤島の斜面の丘に、天秤担いで運ぶ糞尿の桶。この文字通りのクソ・リアリズムが、資本主義国家の後進性を、ソ連国内農民に共産主義体制の優越感を増幅せしめ云々、で、政治と、文化の序列を暗に示しているようで、感慨は複雑でした。その業界ではない者だったからこその、感想でした。