別に{道楽}であちこち、教会顔出して来た訳ではない。
一度以上通った教会、地域別に、記憶を辿りながら、ならばオススメ 、といっても、向こうが寛容に受け入れて同席を許したのであって、こちらが<聖句>にある、扉をたたいたからに他ならない。
だが、共通して言える条件は、自然地理的基盤でしょう。通俗的という形容付けなくとも、不動産なのだ。ちょっとした豪雨、弱い地震、避雷針を付けない、自動車の飛び込みなど、それらで会堂破壊、礼拝中の会員怪我では、その地に建築した、信仰そのものが不信となる。
しかし、長く通うには、それも家族とともに、ならばやはり、徒歩で、が「くびきが軽い」し老いても容易い。真冬、自転車で路面凍結で転んで、腰骨ヒビ後遺症抱えても、信心薄いで済まされても、結果論であって、保険未加入も本人次第。保守的をよしとする年齢は来る。片道数時間かける付き合いあるなら、それもよし。要は、どこに落ち着くかだろう。人様はいい。本人個人の問題。
『袂を分かつ、無い袖は振れない』、これは、「復元 単立イエス・キリストの教会」牧師が言われたのだけれど、単立の教会の厳しい台所事情を、言い当て妙だ、と。献堂に支出、その立派な門構えに、物乞いが故意か無心に来ても、断るしか無い。
たとえ数人の集会でも、伝道所でも、無いよりましであろう。
ネットでも、探せば、無数にある。
しかし、然らば、どこでもいいか、というと。近い、遠い、物理的ではなく。もはや断じて嫌だ、というそれもある。