北海道滝川市内の小学校で自殺した女児(当時12歳)が遺書で「いじめ」を訴えていたことを市教委が伏せていた問題で、同市の田村弘市長、安西輝恭教育長らが5日夕、女児の遺族宅を訪れ、遺族に謝罪した。
女児の遺影が飾られた祭壇の前で田村市長は、応対した女児の祖母の兄(58)に「いじめの把握、対応に不十分さがあった。子供の苦しみ、家族の心中をないがしろにしてしまい、心からおわび申し上げます」と謝罪した。
安西教育長は「ごめんなさい、すいません」と女児の遺影に語りかけながら焼香。女児の小学校校長も謝罪しながら、焼香した。
謝罪後に同市役所で行われた記者会見で、市教委は「遺書の内容から総合的に判断して、いじめが原因だったと考えられる」との最終見解を発表。教育長は冒頭、「遺書内容の公表について慎重を期す余り、女児の遺族への配慮が欠けていたことをおわびしたい」と謝罪した。
市教委はこれまで、女児が遺書で「いじめ」を訴えていたにもかかわらず、「いじめ」に関する記述を隠し、「自殺の原因に直接結びつくようなことは遺書に書かれていなかった」と発表していた。
しかし、この日の会議で「(女児が教室に残した)遺書を踏まえ、いじめと判断する」との見解を初めて示していた。(2006年10月5日読売新聞)
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自宅の少女の葬祭檀の、骨壷を包んだ黒い布地に十字、にショックを覚えた。わずか12歳。
それも、どんな死に方か、自分も知った。その方法は、少女のに似つかわしくない。それは、銀貨の袋を手にした世俗にまみれた男の師を裏切った代価であって、やはり少女のには似つかわしくない。
「いじめ」はかくもおそろしいものか。世俗にまみれた男、の自分にはわからない。
その死に方をしても、黒い布地に十字を纏わせるのは、何ゆえか。
それが解けないのは、自分の罪過だろう。「いじめ」をしたことはなかったか、自問自答するのみである。
ふと思いついたとしても、黙秘させてください。
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ここで、読み違えてはいけない。そこの市長ならびに教育長が謝罪は、遺書で「いじめ」を訴えていたことを市教委が伏せていた問題で、また小学校校長の謝罪も、教育現場の最高責任者の監督不行届き、からの発言である。
義務教育の学校内における「いじめ」を、ではどう事前に予防できるか。担任がそれを察知し、双方の間に立ち、クラスのホームルームの時間等にみんなの前で仲直りの式を取り持つ、とか。しかし、自己申告がないと把握できぬ。それが、初等教育の難しいところか。
『私が死んだら読んでください』。自分は、少女が死んだと知ったから、読み解こうとしているだけである。教室内でのその死に方にこだわっている。教室は、そんな場所ではないから。それを喚起させるイメージがわかないから。
その筆跡に、覚悟を読んだ。その覚悟で書いている。そのおもいが現れている。入魂だよ。12歳のな。こんなモノ書くために魂使うもんじゃないよ。こんなモノはもっと大人になってから書くものだ。お父さん、お母さんの還暦祝いを済ませてから、考えればいいもんだ。
たとえエッセ(エッセイまでいかない)教師でも、それを見破って少女が元気になるのなら、自分も{似非教師}で呼ばれても、拒否はしないだろうが。
オジさん、追い越されて、封切りしちゃおう。
『口惜しかったら生きてみな』
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北海道滝川市の小学校で6年生の女児(当時12歳)が自殺した問題で、同市の安西輝恭教育長は、10日開かれた市議会総務・文教常任委員会の中で、「自殺の重大さを極めて深刻に受け止めている。社会的責任ということを考えて、責任をとらせていただく」と述べ、教育長を辞任する意向を表明した。
女児は遺書で「いじめ」を訴えていた。
女児は昨年9月に教室で首をつり、今年1月、意識が戻らないまま死亡した。(2006年10月10日読売新聞)