NHK教育、再放送「1リットルの涙・木藤亜也」
「1リットルの涙」、この書名を目にしたのは古い。新聞の広告欄に一瞥して、難病の少女の話だ、という記憶だった。
それにしても、そんなに流せるものか、流れるものか、疑うほどに自分は健康で若かった。むしろ、このような表現を用いるほどの難病、それを発病した確率、それを詮索するほどのゆとりは持ち合わせていない自分しか居なかった。
現在でも、その量の涙を流していないだろう自分にはわかろうはずもない。それを苦しいおもいをしてわかろうとするよりも、それをわかって最期まで闘った少女、彼女を記憶しよう、とおもう。意識して、その名前を憶えたのは、今日である。
それは、彼女の倍生きて、やはり「1リットルの涙」を一週間掛けて自分も流したんではないか、という思い出がすでに残るから。そう想いたいから。
彼女のそれは1日分、だとして。
視聴して、彼女の母の決断に、母親という役目というか、本能なのだろう、自分には決して働き得ない、それを知った。わが子の孤独と生の意味への問いかけを、母は即座に決断した。
その決断の新聞広告を、見たことになる。
発病前の日溜りの笑顔の少女よりも、母が選んだもの。
母親の居間にある彼女の遺影の眼は、「1リットルの涙」の証拠だね。