【ローマ=松浦一樹】ローマ法王庁(バチカン)が、江戸時代初期の日本人キリスト教殉教者188人について、聖人に次ぐ「福者(ふくしゃ)」の敬称を与えることがほぼ決まった。バチカン外交筋が3日明らかにした。
日本人が福者の列に加えられるのは1867年以来。
福者は、殉教や「奇跡」によって信者の規範になったと認められた故人にカトリック教会が授ける敬称。ノーベル平和賞受賞者のマザー・テレサ(1997年死去)も2003年、その列に加えられた。
188人は、江戸幕府によるキリシタン弾圧で1603〜1639年の間、長崎、京都、米沢などで殉教した一般信徒が大部分。60人以上の女性信者が含まれる。
遠藤周作の小説「銃と十字架」に登場するペトロ岐部神父、1585年にローマを訪れた天正遣欧使節の1人、ジュリアン中浦ら、聖職者の名前もある。
日本ではこれまで、長崎で十字架にかけられた「日本二十六聖人」(1862年列聖)など42人が聖人、205人が福者になっているが、法王庁主導で決められ「宣教師と男性が大半」(教会関係者)。
今回188人の選定は1981年、前法王ヨハネ・パウロ2世が訪日したのをきっかけに開始されたが、「一家で犠牲になった一般の信徒、女性や子供」を中心に選んだという。
外交筋によると、188人を福者の列に加えることは2月6日に開かれた法王庁列聖省の枢機卿会議で承認され、法王ベネディクト16世の裁可を待つばかり。正式発表は4月上旬になる見込みという。列福式は、長崎で行われる。(読売)
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かって、自称『被爆地巡礼単独行』した時、長崎駅改札でキップに鋏を入れる駅員に、30分で「日本二十六聖人」の慰霊碑までを問うたら、駄目だしを言われ、彼の判断にうなづくが、かように、日本史におけるキリスト教史、にかかわるカトリック信者と、その迫害の歴史は数々ある、ということである。
我が国の歴史を紐解くと、それを無視出来ないばかりか、その或る時点に、彼らが顔を出すからである。
やはり、代名詞として、「聖人」と「「福者(ふくしゃ)」、という呼称が、自分のような部外者には、とっつき易い。
それは、或る種バリアーみたいなもので、そう形容するしかないことが、そもそも、カトリック信者ではない。しかし、誰をキリストと信ずるか、それでは一致しているので、わかる部分もあるという訳である。そう自分は言い張る。
それは、ならば、そのように称号?を授かった人たちをどう見えるか、ここで分かれる。カトリック信者の方々は、バリアーの内から見ている、おそらく。しかし、非カトリック信者にして、自称プロテスタント信者の自分は、バリアーの外から見る。この違いが在る。
それは、別の言葉で言えば、スタンスかも知れない。そうだ、その距離だろうし、間隔だろう。
ならば、総本山たる所は、いとも簡単に、彼らを認める訳には、これ行かないだろう。だから自分のような者は、かって、その敬称を賜った人を探る。それを例に、信仰の深さ、広さを測ろうと、浅はかに考えてしまうのだ。そして、もっとも判りやすい人を見つける。それが、自分には、「ジャンヌダルク」とおもう。
唯一持ってるDVDが、それだ。しかし、これは、こちらからのそれで、絶対者からみれば、それが相応しいから、買わせた、魅せた、ということになろう。想像するだに怖ろしい、彼女の孤独、ではある。
受賞者不在、それが殉教の証だとすれば、信仰とはまさに、全人格と生涯の評価、それも同教同宗内に限って。とても、他人に知られるものではなかろう。
列福式が長崎で行われる、こともそれの表れである。
そして、日本史に無関心で居られない人、カトリック信者の動向が気になる人、がこの地長崎での式場選定に合点がいくのである。
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遠藤周作「沈黙」の映画化。狐狸庵さんは、『おまえなら、タダでやるよ』と、篠田監督が述懐してましたが、お二人とも、その時点で、女優岩下志麻を活用するのを共通して想像したかもしれませんね。当時夫婦である者同志、ひとつになった時のプラスアルファは、フェリー二監督「道」で、お二人とも観てたんじゃないか。狐狸庵さんはカトリック教徒の目で。篠田監督はまさにその目で。カラーでの映画化は、バテレンと隠れ切支丹の時代をリアリズムで再現してくれるし、疲労困憊の観客労働者にも活字からの想像力を省く、受けがいいだろう。海外配給も夢ではない。題材がそうだから。