かいふう

近未来への展望や、如何に。

『神はいない』と、『神は死んだ』では違うけれど。

kaihuuinternet2007-03-04

kaihuuinternet 『{ニーチェの言葉を抜粋}とは、よくもまぁ、逃げたものだ。哲学史に名を残したいためか、人類史にそうしたいためか。その意図、いや意識は、己がその集大成の最後のランナーたらんと欲する自我か。ニーチェの意識を、100年後の島国の我はよう知らん。しかし、ここまで否定の語句を連らねられては、やはり彼をアンチ・キリストと呼んでも差し支えないであろう。自分は、彼ニーチェが来るべき第一次世界大戦を予感して、そう叫んでも、それは構わぬ。その狭間で生を受けし、陸続きのヨーロッパ。所詮、人など、時間と空間に制約されし、ある時代しか生きられぬ死すべき存在、ではないか。やがて近い日数千万の人が死ぬ、そういう、戦争という状況に向かいつつある、ある日の夕陽を浴びて彼がそう吐いた、としてもだ。で、単純な者は、それじゃ、[旧約]のアベルを嫉妬で殺したカイン、すなわちイエスに嫉妬してニーチェは死んでいったのだ、と解釈する。そう、彼の言にもあるように、それは解釈に過ぎない、自由なのだ。死ぬ3日前に改心して、絶対者を賛美しても、その絶対者を信ずる者たちから、死後慕われようがなかろうが、そんな芝居するより、不信者の真実を取るか否かも、本人次第のこと故。文献学者として知識を蓄えるは、職業のため生活のため。それに大半の時間を費やしたとしても、止むを得ない。職業病から、キリスト教を否定したのだろうか。』

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以上は、自分のブログ村の同じ村民の方に、載せたものである。
その人の哲学が、有神論だろうが無神論だろうが、それは自分の関知するところでない。その人個人のものだから。
極端を言えば、講義で学生にニーチェを教える某教授が、実家は代々仏教某宗派の名刹の檀家であっても、誰も咎めないだろう。
こちらがカチンと来たのは、19世紀末の哲学者の言をもって、21世紀から数年経た現在を比較、そしてもしくは俯瞰するからである。
系譜をたどるなら、人類の進歩と前進を承知するなら、もっと後の然るべき該当者を登場させねばならぬだろうに。しかし、断っておくが、後世の者が必ずしも前世の者より、その考えがより深化され解き易くなったとは言ってない。
第一次世界大戦前のニーチェではなく、第二次世界大戦前の誰か、同じ系譜線上の者を取り上げるべきではないか。ならば、ハイデガーではなかろうか。これは、40年前に発行された、高校の参考書にも記載済みである。ハイデガーナチスと同国人で紛らわしいなら、でもニーチェナチスに利用されたのだから。
それなら、同じ無神論でも、故国から動員後、捕虜から釈放され、以後対独レジスタンス運動にはほとんど参加せず執筆に取り組んだ、フランス人のサルトルを持ってくるべきであろう。
『神はいない』と、『神は死んだ』では違うけれど。

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恐れ入りました。自分は、なんでも初級、なもんですから。貴方は、「9.11」の真偽そのものに、もはやピントを合わせて、それでニーチェを引用されたんでしょうね。村民でも、通行人だけの間柄もあるでしょうに。自分には、貴方が追求するであろうリスクを共にする、その若さはもはや自分には肯定できませんから。しかし、その前衛的であるが故、初級入門の若い人たちが、晩年におけるニーチェの入院に、その間彼が罹患した病について知らず、それも絶対者を否定する影響皆無だと、おもってもらいたくないのです。これ以上は、彼の名誉にもかかわることかもしれませんが。貴方はすでに承知しているかもしれませんが、その精神的でない病について。ニーチェの言説のあれこれ、の問題ではなく、哲学史における誰を評価するか、その主観の相違ですよ。朝鮮動乱もベトナム戦争も、湾岸戦争も、そしてイラク戦争も経て来て、なお前々世紀の、しかも絶対者の存在を否定して逝った者を敢えて意識して取り上げている、その入門読者の若い彼らに対するリスクを、自分は恐れているだけです。腐敗しているクリスチャンに放った言説ですか。それなら、わかります。でも、聖書まで否定するならば、それは、評価がわかれますね。貴方と自分では。それは、基本ですから。つまり、自分のいう、なんでも初級、のそれですから。