かいふう

近未来への展望や、如何に。

赤城の山、と海の「赤城」

江戸後期の侠客(きょうかく)・国定忠治(1810〜1850)と忠治に命を奪われた博徒らのそれぞれの子孫が2日、地元の群馬県伊勢崎市で「手打ち式」を行い、約170年ぶりに和解した。

手打ちをしたのは忠治の子孫と、忠治との縄張り争いなどで命を落とした「島村の伊三郎」、「三室の勘助と勘太郎」父子の子孫。

いずれも同市内に住みながら、過去の遺恨などから会う機会はなかったが、忠治の生誕200年を前に、ファンの集まり「いせさき忠治だんべ会」(桜場弘美代表)や同市が「地域の活性化につながる話題を」と、それぞれの子孫に働きかけて実現した。

この日は、それぞれの先祖の墓参りをした後、同市内の式場で、奉行役で裃(かみしも)姿の市職員らの立ち会いのもと、「合わせの儀」「盃(さかずき)の儀」などを行った。

忠治から5代目の長岡富男さん(83)は、「機会あれば、話し合えるような仲になれれば」と手打ちを喜ぶ。伊三郎の子孫、町田栄一さん(58)は、「過去を水に流すことが出来てすっきりした」、勘助・勘太郎父子が祖先の木村政司さん(71)も「せっかく知り合ったので、協力していきたい」と話した。

仲介した桜場代表(52)は「いいも悪いもなくなり、仲を取り戻してくれてよかった」と話していた。(読売)
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先日某紙面、この国のシェークスピアの権威の方が、なんと新国劇国定忠治」上演の批評を載せていた。
沢田正二郎から、辰巳柳太郎島田正吾の二枚看板、そしてNHK大河ドラマ太閤記」の緒形拳と「あしたのジョー」や「同期の桜」の石橋正次らの時代。今回の批評の対象は、更に次世代の若手俳優たちにされたものである。
国定忠治」は、辰巳さんのそれが、印象に残っている。当たり役であることは、自他共に認めるだろう。
島田さんは、僚友を失くした後も、一人舞台で、「白野弁十郎」などで観客を惹きつけた。

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「大楠公」も「赤穂義士」も、武士道でしょう。
丸楠死すとも、は似非マルクシストか。ここだけ[キョウ言]
地方河内の豪族が、歴史の激流に巻き込まれ、負け戦を承知で出陣し、父子ともども果てる。その献身を、皇居前の彼の銅像にみる。
あるいは、主君の無念を、お上の裁定を潔く、家老と家臣たちがともども果てる。
庶民がそれを、情念を、町人芝居で、それとなく、抗議する。語り継ぐ。
国定忠治」も、最近資料の史実的にはどうかとおもいつつも、舞台上演で役者さんたちが演じると、理不尽な時の権力者の越権弾圧を揶揄批判する、そのことで観客も溜飲を下げるのだろう。
とにかく、地域観光振興にも、和解は、歓迎です。
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かって、ヘッドライトひとつで深夜の赤城の山を越えた時、侠客がこの山に御用の灯りを数見て逃亡する影を浮かべたが、それより、空母「赤城」のことを想う方が、孤を支えてくれた感じがする。
彼ら乗組員が、どこの山河を後にして、「赤城」という艦船にひとつになって、荒巻く洋上に戦闘行為に臨んだか。
見上げた月灯りに、山も海もない。