かいふう

近未来への展望や、如何に。

我が内なるパウロ的なるものとは.その2。

再掲かも知れぬが、この項目ではなかった、とおもうので、述べる。
昔々、ある施設に、たしか面接に行った。目の不自由な方々の重複の障がい者の収容ならびに通所の、それである。
点字の講習を修了して、でも点訳する会合には参加せず、跳び込みの訪問である。公的施設故、個人だろうと、グループだろうと、断ることはしない。作業や、音楽バンドの設備やら、見学させてもらった。2度は行った。そして3度目、その回だけか忘れたのだが、スーツで履歴書持参であった。
施設長は会ってくれた。対面の会話で、映画の話を持ち出した。悪気はなかった心算だが、その直後彼女は、自分の履歴書を上から下に真っ二つに破り捨てた。彼女の怒りの顔より、その睫毛が白かったのを、憶えている。
彼女の私的な事情からはじめて、公的法人までの苦難の道のりを想えば、その行為は、至極当然な結末だったのだろう。
世界の名画を山ほど観ても、それを得意気に吹聴しても、その働き場所では、何にもならん訳だ。
でも帰途何故か、放心する自分を駅まで歩きながら、傷ついたとは感じなかった。彼女の施設長としての判断が正当だった、とおもうからだ。決して嫌味ではなかった。承知できたのである。
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後日、戦争に出征され負傷して失明、戦後の愛盲運動として、点字タイプライター普及に功績のあった方の葬儀場で、その施設長の旦那さん、多分1回目に会ったその人、も参列を見た。
自分は、おそらくそのご夫妻はクリスチャン、とおもうから、この日に、このことを書いた。
自分の睫毛はまだ白くはない。
が、彼女の判断が正しい、と再確認するためではないが、自分のブログに不要な、不可解なコメントおよびトラックバックは、遠慮なく削除消去する、ことを表明する。