『アルファベットの傀儡に墜ちている者は、たとえばそれは、『A.B.C.D.E.F.G♪、Hして、I人造って、Japanese♪』という番外編のモデルになるような者たち、のことでしょうか。
近未来のこの国のある日の歩行者天国が、認知されない母子家庭、札束で身をあずけるI人、彼女たちだらけになったとしたら、もう亡国廃人ですよ。恐れますね。大和撫子は何処、英霊の方々も犬死同然。他国からは、蔑まれ、影で嘲笑の的と貶められるでしょう。
そうさせない為に、他国からの謀略陰謀の類に対処する術を、その躾を、こんどの「徳育」にも配慮怠り無くしたいですね。』
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上記のような替え唄は、とても人前では唄えない。
また小学生に、教えられることではない。
しかし、自分がカツラで女装して、その日の食事にも事欠く若者を集めて、彼らに小学生の衣装を借りて、みんなで合唱しましょう、となると、話は違う。
その中のひとりが、質問するかも知れない。『せんせい。先ず愛があって、それからですから、愛して、Hして、Japanese♪、ではないですか』
そう問われても、答えに窮するのみである。そんなバージョンつくっても。
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昔々、とある大都会の幹線道路の十字路交差点に、立ち食いの天ぷら屋があった。ビル街で、せめて昼休みぐらいは、お日様に当たりましょう、と会社員が大量に吐き出されて、昼食に店頭に来る。
天丼セット、というのがあって、天ぷら丼にそばかうどんの麺類をたのめる。
母子家庭と、I人は、それとは違う。セットでは、困るのである。
母子家庭で棄てたから、I人も、セットでつくりました、では。
巷に、そのすれ違いのセットを、街角で見よう、とはおもわない。そんな十字路交差点は、売れないSF小説、の中だけにしてほしい。
母子家庭を、どうのこうの、でない。それは他人の出会いの事。私の知るところではない。止む無く別離を迎えて、そうする場合もあるだろう。微妙なのは当事者間、他者にはわかりかねる。
しかし、母子家庭の親子連れが多数、そしてI人が闊歩して、行き違う。そんな光景が、その国の基準や標準になってしまう、それを眼にするのが、嫌なんだ。
それは、数式で型が付くもんではないから、複雑な個別の情況だから。そうでしょう。
認知するから、したから、で済むんでしょうか。I人にはそれ相当の札束積みましたから、でいいんでしょうか。そういう風潮が流行るのが、その国を健康から隔離していく様で、嫌なんだ。
亡国に繋がる、とわかった時に、杞憂という感慨を抱くべきなのか。