かいふう

近未来への展望や、如何に。

ある同姓同名の話。部分再掲。

kaihuuinternet2007-07-22

昨日の件は、旭川であった。その駅名を地図で見た時は、同じ線に、名寄という駅名をよく探したものだった。名寄岩という名の力士がいて、三役大関を勤めた、というのを誰かから聞いて、戦前の力士でも強い人がいたんだ、という記憶である。
そして、その先突端には、宗谷岬があって、それは南極観測隊が乗船していった船名でもあった。そこには、南の「ひめゆりの塔」と比する、「氷雪の門」の慰霊塔があって、とうとう行かず仕舞い、で終わる。
そういえば、学生の時、部活動で旭川出身の男がいて、シナリオハンティングだなんて告げて、酪農バイトに行ったんだな。そこで生活する体力も自信なかった。ひとつの詞曲が浮かんだだけで、それさえ音で流せない。都会の表面づらだけの人の波に呑まれて、自然の感覚が薄れ剥がれていくのを、畏れることさえ忘れている自分が、何か半分しか生きてないような気がする。
さて、そうだ、同姓同名の話だったんだ。
そこではしなかったが、ある教会で、北海道からの新任牧師と、ある期間共に祈った。副牧師から、新会堂竣工を経て、その教会創立時の牧師から引き継いで、説教をする主任牧師となった。その会員で、堅信礼をも受けた、米国帰りの若き姉が『第二期黄金時代』と称していたから、察しがつくであろう。求道者として、よくその近辺に主日礼拝のチラシを各家屋に配布したものだ。それも、若い新任牧師の意気と信仰に共感すればこそ、である。
彼とは、最寄私鉄沿線の駅から、教会までの途中にある、札幌ラーメンの店で共に食べた記憶もある。
それでも、その教会から、別れた。後日、彼が、訪ねて来たが、その時彼も、通うに遠い距離を実感しただろう。踏み切り越えて、幹線道路で信号待ちして、の時間だから。その教会から来たのは、後にも先にも彼ひとりだけである。
彼の若さで、新会堂の牧師職を任された、という話は、余り知らない。
その辺の経緯も自分は承知していた。土地勘の無い地域で、父母を道内に残し、はそれなりの信仰が試されたであろう。でも、その教会が属する教団は、この国では、信者数が少ない国にしては、歴史も会員数も多い、とおもった。なにより、戦後の焼け跡から、復興遂げた今日まで布教を続けて来た初代から、信任を得たのである。初代の方は、カリスマが見受けられた。そうだろう。戦後の焼け跡から、である。身をもって、証しているではないか。
牧師、あるいは司祭職が、いかなる科目が必修か、知らない。ある教会は、ラテン語か、またアラム語か。これは語学に限った話だ。
こんなはずではなかったに、はどの職業にもあるだろう。
彼には、自宅で、この近くにも教会があるから、と告げた。彼が、そのひとつを、すなわち自分が会員になった教会を見て帰ったか、知らない。しかし、少なくとも、彼と自分は教会が違っても、誰を救い主とするか、では同志であろう。
こちらが単立に至った、だけの違いであるからして。
世俗の、独占禁止法ではないが、その教会のみ、と想い込んでいるから、周辺にチラシも配るのであって、まだ他に見つかりました、では、求道者とて、ベターな選択の枝は残されている訳である。
彼は迷える子羊を探して、来てくれて、まだある教会を知らされて、帰ったのである。
その彼と共に会堂内で観たのが、劇映画「塩狩峠」であった。道内、旭川宗谷岬稚内の中ほど、塩狩峠の勾配がある。この原作者の教会と、その彼の牧する教会は、同じ教団という訳である。

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先年、その教会の前、選挙での立て看板、某候補者ポスターの部分シール貼付で通ったが、主日の説教に、その彼の名がない。
それより更に先、とある業界会報誌で、事故死の訃報欄、その彼と同姓同名をこの眼で視しが、確認してない。
その彼の名は、この国では、ベスト10に入るほど多い名字故、同一人とはおもえない。おもえない、のか、おもいたくないのか。
とある業界、とは、牧師職から転職なら、可能な職種であろうから。
もとより、こちらに、彼の生死にかんして、責任を問われる、付き合いなど、とうにないのである。
後日、ネットで調べたのだろう。その教会の現牧師名を確認するに及んで、おそらく、その教会からは離れたのであろう、と。これが、彼の消息に対する、自分の結論であって、その後は知らない。
この世の中には、知らなくてもよいことがあるのだ。知って、落ち込んだら、どうする。聖職者を離職しても、信仰の厚い、高徳な人は幾らもいる。ましてや、聖職者として信者を牧したほどの者であるならば、とある教会で、かっての同職を補佐して、その教会を守り、信仰を重ねるであろう。
ならば、とある業界会報誌で、事故死の訃報欄、自分が視た、その同姓同名の者は、如何なる誰なのか。クリスチャンでなかった者か。自分が知っていた聖職者を勤めた人ではない、もうひとりの者か。
この事について、自分は祈れない。
だって、どのように祈れ、というのだ。だから、アーメンも添えられない。