かいふう

近未来への展望や、如何に。

「WikiScanner」日本語版、登場。

Wikipedia日本語版が存在を知って、昔々勤務していた施設の園長室に百科事典があるのを知り、ひとつの公益法人のステータスのシンボルとして、その存在を重く受け止めた。精神衛生上、職員とその居室で対話する時でも、威厳の後光としてあるのである。
それから、インターネットで使用するOSに百科事典のソフトも付いて来て、実用の付加価値を高めた。
そして。ホームページやブログという新ジャンル開拓で、ホームページのたとえばホームページビルダーさえ自分で作成できぬ個人でも、ブロガー足り得るに、Wikipedia日本語版も足並み揃えて、普及の一歩を踏み出した、というのが感慨である。
自分などは、寄る年波に、どうにかブロガー足らんと欲する者のひとりであって、3年目の現在、もうじきゴールの目安を目論んでいる。
換言すれば、点訳で本を残せないからでもあり、手話でお役に立てないからでもあり、運転免許証で車椅子の送迎も出来ないからでもある。
気付いた時から、家族の机にパソコン、脇に携帯電話がある、それが生活の当然な世代とは、違う。
Wikipedia日本語版を使用する際、はじめて、そこに掲載されたカット写真の転載を申し出た。それも著作権がらみと判断してのこと。
それは、全市街瓦礫の焦土と化した中にある黒焦げの屍、のモノクロ写真だったろう。誰か判別不可能なので、肖像権はそのものが消えているのだろうか。
それで、その編集規定により、数人の参加者に意見を求めたところ、事典の記録としての記述と、個人用の記載では、相違点があり、個人記載で修飾される懸念あり、という訳で、そのモノクロ写真の転載は却下され、以後最近の同時代活躍の著名人の項目とその作品探しとが時々あるくらいである。
故にそれ以降、インテリの方々が良心と善意と、そして己の知識を広く民衆と少年に流布するボランティアとして、地球上の同時代人に提供あるいは共有するが趣旨、と判断した。
そしてこの度、若いソフト技術者が開発のそれで、彼の言にあるように、公開されることで、かすり傷程度あるとしても、互いに切磋琢磨の意向を選択したならば、そういうものかともおもう。
公共団体ならいざ知らず、この事が個人使用について、そのリスクはそれなりに承知して、書き込みを考えることでしょう。
書き込みそして削除、のイタチゴッコのリスクに敢えて参加するほど、もう自分が若くないことだけは確かだ。
いささか冗長な老人の杞憂は、この新ソフトの有用性と展開には何ら関係ない。
農水省から「ガンダム」の書き込みあり、と。手塚治虫の「ブラックジャック」から医師を志した方もいた、という逸話。けれど「ガンダム」書き込み可から、農水省目指す人いないよな。