手短かな例でいく。チャプリン『自伝』と、「エイゼンシュタインの伝記」を持っているから、そこからしか比較の基が見つからない。
『自伝』を書けるなんて、その人の人生は概ね幸せであった、と判断できよう。
方や、「伝記」というは、本人が生前残した金で、書いてくれなんて、あまり聞かない。後世の作家志望が、転向か、余程好奇心を抱いて、売れる売れないの算段を省みず、情熱でもって、その伝記の対象者を選別、資料を漁って後、執筆を決めるのだろう。
エイゼンシュタインが映画の巨人であることは、その伝記作家、たしかマリアという名も含まれた彼女は、自覚していた。生まれた国がロシアであって、革命に翻弄され、国外はたしかメキシコまで逃避しても、映画作りをした稀代の映画作家を。
漢字のできる由来を解読して、例えば山とか川とか分かり易いものから、漢文習ったのがよかったとおもわせる読者に、解釈もしている。それから、モンタージュ理論、4コマ漫画がわかりやすい。起承転結だ。序破急なら3コマなのか。
自分も無駄にせず、使った。歌でも詞で、それを構築できた、と自画自賛しよう。
さて、作品に結実できるならともかく、伝記を書いてもらえそうにないなら、せめて、クリスチャンの証とやらで、自伝的ブログを記述しよう、とあがく。逆でも、許されるだろうはずだ。
内村鑑三氏が自伝、それを後世の信徒の為に、著作として残してくださったが、それを読んで無くても、怒りはせぬだろう。
それで、くどいが、そろそろなので、自分のクリスチャンとなりし証を、述べたいとおもう。
こんなオジサンでもクリスチャンを自称できるのか、と。
昔々、電車内、吊り革の自分の前に腰掛けた、若い新妻とおぼしき女の首から提げし十字架の、誘惑除けかのそれに、いたく印象が残るからである。つまり彼女は、周囲にクリスチャンをそれをもって表現している訳、と見て取った。
事実は、結婚前の婚約中かも知れぬが、どっちでも同じだろう。
いや、真実は、そのどちらでもない、女かも知れない。
すると、それを気にしたのは、十字架を胸にする、クリスチャンの存在、そのものかも知れない。
それならば、自分もここで、クリスチャンの証を口外しても、いい訳だ。
ボロさえ見せねば。いや、たとえ見せたとしても、それさえ、後輩の求道者には、反面教師の材料になるやも知れぬ。それもまた、主の救いではなかろうか。
自分は、半面の方を望むが。