かいふう

近未来への展望や、如何に。

みそピーのお姉さん、と白い服。

kaihuuinternet2007-11-11

先日来、某大手英会話学校が倒産騒ぎで、世間をにぎわせている。その看板、以前、関東にある航空管制地近くの私鉄駅前で見掛けた。若者たちが入るハンバーガーの店舗も数あるバスロータリー、米軍家族の母子たちも歩いていた。
資源小国、貿易大国のこの国には、実務のみならず、英会話が日常普通になる日が、地域ごと現れてもいい場所も出ているだろう。
自分も、それが適わず、得し損なったのは感ずることが多い。しかし、あるレベルを確保する自信が付かないと、なかなかこちらから積極的に話し掛けることもしないが。片言の単語羅列では、かえって誤解を招いてしまうかも、と。
それで、偶然往来で見掛けても、視線が合えばラッキー、ってなところだ。
もう昔々、すなわち、ワンス アポンナ タイム、の話である。
若い欧米人とおぼしき女がある店で買い物、を見た。店の人に尋ねると、頻繁に来るようになった、と言う。それを何度か見掛けた。で、その店の人に、仕事を聞いてもらったら、英会話の学校の講師らしい。みそピーをよく買うという。みそピーとは、落花生の外側を剥いて、中の皮付きピーナッツを水飴のみそでつつんだ、携帯包装の食品である。暖かい御飯でもよし、冷や飯でもいける。
しばらくして、彼女が、小柄な生徒らしい男と、店前を通過した、と店の人から聞いた。そりゃ出来るよな、美人だものな。その店の人とは、銭湯でも時々会うらしい。まだその当時は、この国も、水と安全はただだとおもっている国民が大多数を占めていた時代、学校帰りでお風呂寄るとはおもえないから、夜間出て来るのは、治安が良かったせいか、髪の色違う外国の女に、それが米国人ならば、という引け目があったのかも知れない。
それで数年、相変わらず、みそピーを買い求める、という。それがある日、帰郷すると、店の人に告げた。それを自分も知った。
そして、ある夏だろうか、暑くて夜眠れないな、という晩のこと。銭湯の前を通って、左折しようとしたら、前方の遠く十字路に、灯下白い服の女がひとり佇んでいる。誰だろう。もしや、みそピーのお姉さん。左折するところまで歩き、目を凝らすと、灯火の反射するは黒髪ではなさそうだ。みそピーのお姉さんが白い服。ひとり佇んでいる。その距離まで、誰の気配もない。その路は、かって幼稚園にも、小学校にも通い慣れた道路。途中右に曲がれば、近所の仲間と野球した神社もある。
誰かを待っているのだろう。誰って、誰だろう。あの小柄な男か。生徒なら、自宅まで付いて来て、断れないか。もう恋人か。その男を、こんな夜間、十字路まで迎え待っているのか。
自分ではないよな。このまま走り出して、その白い服の女の前に息せき切らせて、何と言うの。
左折した。その女の人が誰を待っているのか。いや、何を待っているのか。異国の地に母国語の教師、講師に来て、帰国しようとする。青春なら、思い出はあった方がいい、無いよりは。しかし、思い出になるような相手でないと。外国映画の甘いシーンはTVも含めて、観客席から溜め息まじりでいる方だから。
でも、その光景そのものが、それに出くわしたことが、自分の思い出なのだ。
白い服の彼女、みそピーのお姉さん。それに間違いない、とおもっている。
その時の真っ直ぐ駆け出すこちらの条件、英会話が出来ること。おもいを打ちあける度胸があること、もしくはクリスチャンの祈る信仰があること。
こちらに条件が不足していた。少なくとも自分は。
で、左折した自分の後、何十分かして、彼女と同じ母国語の男か、誰か、その路を真っ直ぐ歩いて行ったか、知らねぇ。
ただ、未だに気になるのは、そこに佇むのに、おそらく彼女は祈ったであろう、そのことだ。
そして、それを何十年経て忘れずにいるのは、自分が気付いて、左折するまで、そう、その数分、彼女が期待するもの、おそらく祈ったであろう、そのものを自分が独占した、という感覚だろう。彼女もその眼差しでこちらを見ていたんだ、という。
それを、白髪まじりの今になって、確信持てるのは、自分も彼女と同じを信じ祈ってきた、という、その愚かさが同じ内にあるからだろう。
彼女は、それとも気付いたのだろうか。みそピーを買った店の人が、その会話を日本語でした人が、家族たちをその何十年前の空襲で亡くした事を。
その何かを感じ取って、ある晩、親切にも、夜間の危険を省みず、十字路でひとり待っていたのだろうか。誰を。
自分は、その白い服の女の人のために祈る。今も健在でいることを。
再度いうが、あの数分、彼女が放ったものを独り占めしたのだから。アーメン