かいふう

近未来への展望や、如何に。

激情と、激情。

「華麗なる激情」という名の劇映画があって、「ピエタ」を若くして造ったルネサンスの天才、彼の名を知った。もう、その題名のごとく、それ以上の激情はない、と。
ところが、数年前、あるTV番組で、この国の還暦を遡っての時、ある人が憤死を知り、こちらの方が、激情において、上回っていると認めざるを得ない結論を、出した。
ルネサンスの天才の激情を、引き出したのは、バチカンの主であり、神の教えであったろう。
しかるに、この国の方は、彼のその死を導いたのは、何であったか。
彼は飛行教官として、若い年少の将兵に、操縦と攻撃方法を、敵を打倒するために、教えた。
学んだ通り若い年少の将兵たちは、飛んで行った。帰還しなかった。
そして終戦。飛行教官だった彼は、もぬけの殻になっちゃったんだろう。愛機を駆って、上空から真っ逆様、地上に激突して微塵になった。
あぁ、おそろしい。
その光景を見てた村人が、その場所に、墓地を立てたという。
そうだろう。彼の激情を、鎮めるためには、それしか思い浮かばぬ。
白い煙を吐く機関車の時代は過ぎても、その気になれば、その場所に行けないことはない。陸続きである。
来いとも呼ばぬし、おまえなんぞ来ぬがいい、とももの云わぬ。
こちらもクリスチャンだし、自死はご法度だから、そんな事係わりない、と言える。
しかし、そこに墓あるは事実だし、古老の村人の証言も疑いがない。
自分は、彼の名を知った。
異教徒の自死だからこそ、の墓地など訪ねんでもよい。
しかし、気になるのは、それしか選びようがなかった彼の、激情の激しさなのだ。
誰が受け止めることができようか。
神はそれを拒絶するだろう。訓戒に背きし故と。
では、もういちど問う。誰がそれを受け止めたんだ。
ずっと、それを守りつづけて来た村人たちか。それを語り伝えてきた人たちか。受け止めたんだ人たちがいるではないか。
おそらく、何百年も、その地の村人たちは、それを伝承するだろう。慰霊として、激情を鎮め、若き血潮を、次の若い人に託すためか。
その激情について、考えることは、許容されるとおもう。
すると、何が間違っていたか。
激情の真偽を問うのではない。偽者の激情が即ち世を間違えるのだ。
つまり、偽者が導くのを見破ること。
ここまで来たら、何か、彼が鎮まってくれたようで、眠れそうだ。

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掲載は、柳田邦男さん著作、から。